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月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちていた。
それを拾って、役立てようと
僕は思ったわけでもないが
なぜだかそれを捨てるに忍びず
僕はそれを袂に入れた。
月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちていた。
それを拾って、役立てようと
僕は思ったわけでもないが
月に向ってそれは抛れず
浪に向ってそれは抛れず
僕はそれを、袂に入れた。
月夜の晩に、拾ったボタンは
指先に沁み、心に沁みた。
月夜の晩に、拾ったボタンは
どうしてそれが、捨てられようか?
詩集「在りし日の歌」より
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段落の切り方と句読点など、彼の息遣いのリズムを示すところを素直になぞり小声であっても音読してみる。この詩は死後に出版された第二詩集「在りし日の歌」に含まれたが、その初出は昭和12(1937)年の実業之日本社の月刊雑誌「新女苑」2月号(創刊号は1月号)と言われている。
昭和11(1936)年11月に東京にいた彼は長男を2歳でなくした。12月に次男が生まれた。戦前の月刊誌の発売月が今のように前の月なのかどうか不明だが、そうであってもなくても編集部はこの詩を彼から昭和12(1937)年1月までに受け取っていただろう。
この詩の基盤には長男を失ったことがあるとの解釈が広く行われ、悲しみが昂じ精神に支障が生じたとされた結果、千葉県の海辺近く(今の千葉市中央区千葉寺町)の、精神科を持つ医療機関(今の中村古峡記念病院)で翌年昭和12(1937)年1月に療養を開始し、2月半ばに退院した。この経験につき「千葉寺雑記」が残されている。ここでは「治療」活動の一環で、療養者に文章を書かせ、それから気持ちのありようを医師が読み取りコンサルに役立てようと試みられており、彼のものが平成11(1999年)に発見され「療養日誌」として出版された。
この詩の海辺がどこであるか、そうは簡単ではないと思う。もちろん、彼の想念の中での景色である可能性が大きいが、ふと詩い始めた時に浮かんだ浜辺、波の音、夜の景色、それがどこだったのか、考えてみた。昭和12(1937)年2月半ばに退院し転居した先(鎌倉の寿福寺境内にあった賃貸物件)からまっすぐ南に歩いていく由比ガ浜に限らずとも、鎌倉には砂浜が広がる。しかし、雑誌の編集部がこの詩を受け取ったのは鎌倉転居の前だろうから、療養開始直後、療養所から歩いて行った千葉市稲毛の浜辺であったかもしれない。しかし、療養開始前、例えば、生まれたばかりの次男を妻に任せ、前年12月に小林秀雄ら鎌倉にいた友人を訪ねた時に歩いて行った時の浜であるかもしれない。さらには、それよりも前に行ったどこかの浜、子供の頃であったかもしれない、そういう浜に月とボタンを配したのかもしれない。
さて、療養のおかげであろう、継続はそれほど必要ではなくなったようで、しかし東京に戻ることは選ばず、昭和12(1937)年2月終わり、上のように家族と共に鎌倉に転居した。鎌倉には、彼の恋人を横取り自分のものとした、それでいて親友の小林秀雄もいた。そして、しばらく、詩作と詩集の編集、友人たちとの交流に時間を費やしていた。しかし、5月には体の変調がはっきりと出てきた。そして、結核と脳膜炎の併発なのか結核性脳膜炎というものがあるのか分からないが、8か月ほどの鎌倉生活を、10月21日木曜日が22日金曜日になったすぐあとの真夜中に鎌倉養生院(今の清川病院)で終わらせた。告別式は寿福寺で24日日曜日に執り行われた。
彼の思いが俗世を離れそうで離れられず、どうしても語りたい事柄や感傷、後悔や期待等を詩の形で他者にも引渡し、共有したい、共感を求められるなら共感も得たい、ということなのだろうから、結局はそこに生きている中原中也がどう動いているか、どこを歩いたか、を探ることにあまり意味はないという知恵の集約のようなものに行きつく。しかし、上のようにどこの浜辺であるか地図の上で分かった気になってそれに月を重ねてみると景色がやっと凡人である私の目に浮かぶ。浮かんだ景色があることでやっと私の心に彼の気持ちを引き寄せて消化できるような気がしてならない。子を失った時に感じること、そう感じている最中に考える他の事、その時までに自分に生じてきたこと、それから先の未来につき(喜ぶか・慄くかは別にしても)感じること、それらが一塊(ひとかたまり)になる時に、あるいはその感情のもつれを思い出す時に、塊を凝視しそれを他の誰か、あるいはあの誰かと共有するための息遣いや言葉を選ぶ、そういう詩作を彼の想念の中で実行した結果だと想像している。
子があの世に捨てられたことで、抛られたことで、失ったものは彼の命、自分の外にある中也自身ではなかろうか。残った中也自身を捨てること、抛ることだってできることは知っているにちがいない。しかし、世間にある、自分の外にある、自分自身はすでに捨てられた、抛られた。そのあとに残っているものを今一度捨てる、抛ることで実現するのは全くの無なのだろうけれど。それは、何かがあったのだけれどなくなった、ということではなくて、加えて言えば、何かがあるべきだけれどないということでもなくて、空虚であるという意味合いでの空(からっぽ)であることにもどるのだろう。
つまりは今まで生きてきたけれどがらんどうであった、意味はなかった、なんの役にも立たなかった。そう知るか、それとも知らないままでいくかの瀬戸際に来てしまった。子を(運命によって)捨てられ、自分をも捨てられ、ぼんやりと月夜の浜辺に来てしまった。その時、言葉はまだ見つけられずうめいたのではなかろうか。そこでみつけた、残っているこの矮小な少しは意味がある、あるいは少しは意味があった、あるいは何か意味があってほしい、そういうものは捨てられないと。自分を助けたかったのではないか。だから、そういう様子の、小さなそういうものは捨てることも抛ることもできないと。浜辺から離れてしばらくして言葉が集まり始め、うめきの内容を紙に刻みこんだのだろう。
長谷川泰子に捨てられた時も似た気持ちになったのであろうか。そうであったとして、その気持ちを意識しつつもそれからを生きてきたことは確かである。月夜の浜辺でボタンをみつめた後、同様に生きることになっていたはずであったのに、その数か月後の昭和12(1937)年10月22日に生が止まってしまった。その少し前、9月下旬にこの詩を含む詩集の清書原稿は小林秀雄に託された。
2022年5月6日(金) 2023年12月16日(土)改