2022年10月頃に考えていたことです。考え方の流れの部分の多くを自分自身に説明しているので私にとっても読み返すと長い。結局は、救われるということ、覚るということ、覚るとどうなるのか、どうすると覚るのか/救われるのか、救われると覚るとは同じなのか、重なる部分が多いのか・・・ そういうことを金剛般若経の現代語訳を読んで考え込んだということです。1年経ってなにか変わったか、分かることが多くなったか。読んだお経は増えたものの疑問はそのままです。救われるとか救われそう、覚るとか覚りそう、そのような感じはないです。実はこの点をあからさまに述べた宗教書(解説書)として「歎異抄」があるとの教科書的知識に引きずられ、同書と解説書を読み始めました。自分自身の考え方がどう変わるか。興味津々です。
(以上は2023年11月記)
1.はじめに
金剛般若経と般若心経を扱う岩波文庫本[1]で、訳者のひとり中村元は解題(217ページ)でこう言う。
「いかなる宗教といえども善の行為を行うべきことを説く。その点では大乗仏教も同様である。しかしこの『般若経典』[2]では倫理的実践を空の思想によって基礎づけているのである。人に何ものかを与えて助けるということは善い行為である。しかし、とらわれることのない清らかな心でなさなければならぬ。『求道者はものにとらわれて施しをしてはならない。』(四節)・・・世間で人が何か善いことをする場合にはとかくそれをはっきりした形に残してやがては自分の利益をはかろうとする場合も少なくない。だから、それを戒めて、『求道者・すぐれた人々は、跡をのこしたいという思いにとらわれないようにして施しをしなければならない。』(なお、一四・e参照)」そして、すぐに続けて、中村は釈尊の次の言葉を参照する。「求道者がもしも自分は人々を導くのだというような思いを起こしたならば、もはや彼は真実の求道者ではない。(一七・f節[3])」
中村は段落を変えて次のように述べ、金剛般若経とその後に成立した般若心経の重要な要素である、「空」の考えを盛り込みつつ、自他の区別のない行いを成すために、真実の求道者、真の功徳を積む者には自我という思いもないことを紹介する。
「こういう理想を実現するためには自我と他の自我との対立感を撥無[4]しなければならない。『それはなぜかというと、実にこれらの求道者・すぐれた人々には、自我という思いはおこらないし、生きているものという思いも、個体という思いも、個人という思いも起こらないからだ。』」[5]
金剛般若経にかかる私の悩みとは何か。徐々に腑に落ちてもらえるとは思うが、ここでまとめておく。
ひとつ目は読み方の難渋さである。「〇〇〇は〇〇〇である。しかし、〇〇〇は〇〇〇ではない。だからこそ〇〇〇である。」という話法が多い[6]。その各部分にこだわると読み進めることができなくなる。これは般若心経が「色即是空、空即是色・・・」と進む様子に似る。なお、般若心経の重要語である「空」はその前に成立した金剛般若経[7]にはない。しかし、金剛般若経は「空」の思想を説いていると中村は言う(212ページ)。
ふたつ目の悩みは、自分自身とその外の認識をどのように行えばわかりやすいのかを金剛般若経は示す、つまりは認識作業のための整理学ではないのか。宗教が説くものとしての善の行為が金剛般若経で扱われているとの中村の説明はわかりやすいが私には不明感が残る。つまり、苦しくとも苦しくなくとも生きようという気持ち、どん底から這い上がろうという推進力のようなもの/そのような考え・人生の指針に、その内容はつながるのか。みな平等であって差別・区別がないと理解するなら、そしてそれが少なくとも最高の知・覚りの一部なら、自身も助けないなら他者にも施しをせず、善の行為を行わない、このようなことも許される余地があるようにも読める。そこまでひねくれなくても、整理で終わるならこれは宗教ではないのではないか。このようなものかもしれないという曖昧さを越え、はっきりと金剛般若経の内容、最高の知・覚りの内容がわかれば、そしてそれが身につけば、生きる指針、共同体に寄与する指針が見えるし実践することになるのか。最高の知・覚りにたどり着けておらず、それがまだ身についていない人たち、仏教を学んでいる人の大多数はそこに至るまでの時間をどう過ごすべきとされているのか、そして過ごしているのか。もちろん、大乗仏教[8]はこの悩みに答えを用意しているであろうから世界宗教のひとつなのであろう。本稿はそれを知る前の私が上のような悩みを持ちながら金剛般若経を読み、手元に残す読み方ノートである。
2.如来、存在
103ページの前半で〈如来〉は真如、すなわち宇宙の万有に普遍的にゆきわたっている永遠の真理の異名としたうえで、釈尊はスブーディ[9]に説く。「スブーディよ、如来というのは、これは、生ずるということはないという存在の本質の異名なのだ。スブーディよ、如来というのは、これは、存在の断絶の異名なのだ。スブーディよ、如来というのは、これは、究極的に不生であるということの異名なのだ。それはなぜかというと、スブーディよ、生ずることがないというのが最高の真理だからだ。」(一七・c節)
生じる前にはこの普遍的な永遠の真理がないという結論を避けるために、生じることもなかった、とする話法かもしれない。もちろん、真実として、真理には始まりも終わりもない、との理解が望まれるのだが。
3.覚り、功徳
103ページの後半、釈尊は語る。「・・・スブーディよ、如来がこの上もない正しい覚り[10]を現に覚ったというようなことがらはなにもないからだ。また、スブーディよ、如来が現に覚り示された法には、真実もなければ虚妄もないのだ。それだから、如来は、『あらゆる法は、目ざめた人の法である』と説くのだ。」(一七・d節)
113ページの中頃に「・・・スブーティよ、『〈功徳を積む〉〈功徳を積む〉ということは、積まないことということだ』と如来が説いているからだ。それだからこそ、〈功徳を積む〉と言われるのだ。スブーティよ、もしも、功徳を積むということがあるとすれば、如来は、〈功徳を積む〉〈功徳を積む〉とは説かなかったであろう。」(一九節の後半)
このような、期待していることは、実はないことによって、期待していることがあることになる、という話法が多く、難渋である。善を行うことにつながる功徳を積むことを巡る釈尊の言葉を追いたいが、まずは功徳ではなく、他のことがらを使ってこの話法をたどりながら私の悩みを書く。
4.存在
存在するということを考えてみる。過去にあることがらがあったということは、あるいは過去にあることがらがその時は存在しても、その後にもそれがあることにはならないから存在したが存在しないというようなことかもしれない。時点の違いを捨てれば、存在するが存在しないと話すことになる。広げてみると、あるということとないということの二分法では仕切れないことがあると言いたいのか。その仕切る、区別するということは判断であるから、その判断は判断する者の外には絶対的な根拠のないものであるということをほのめかしているのか。どこに行っても、あるいは時間軸のどの時点であっても絶対的に正しい尺度はないとするなら、すべては比較感(観)・関係性の中にある、判断もその対象も他の判断や他のことがらとの関係がなければ、突き詰めると「ない」、だから、あるということもないということも、そのように判断する者がその判断対象と他の関係のありさまを見て判断するということか。そのような関係がなければなにもない、ほんとうの変わらないものはない、と整理しても、その一方ではものごとの始まりの直後からあるように見えるものは、他と関係しつつという限定はあっても、あると表面的には説明できそうでもある。しかしその始まりというものすらが他のものとの関係がなければ「ない」のであろうから、始まりの直前にも直後にもなにもない、ものごとのはじまり、時間の始まり、とにかくはじめということも含めてなにからなにまでほんとうに変わらないものとしてのものはない、他との関係なしにはあるということにならないので本当の姿はない、ということになりそうである。しかし、他との関係の中で漂うものを、未熟であろうともとにかくも判断する者から見ればあると言ってしまう、あると判断する、いろいろなものはあるのだと皮相ではあるが言ってもよいと割り切ってもよいかもしれない。しかし、やはりこれは未熟であり、ほんとうはない、ということのみがわかるべきことであろうか。これが覚り示された法というものが示す方向観かもしれない[11]。
5.功徳を積むこと、自我
功徳に戻る。上の一九節の言葉で説明したいと釈尊が考えていたことはなんであろうか。功徳とその積み方につき釈尊が語る部分を読む。
91ページの終わり。「さらに、また、スブーディよ、実に、この法門は不可思議で、比べるものがない。スブーディよ、如来はこの法門を、この上ない道に向かう人々のために、もっとも勝れた道に向かう人々のために説かれた。ある人々は、この法門をとり上げ、記憶し、誦え、理解し、他の人々に詳しく説いて聞かせるだろう。スブーディよ、如来は、目ざめた人の智慧によってこういう人々を知っている。スブーディよ、如来は目ざめた人の眼でこういう人々を見ている。スブーディよ、如来はこういう人々を覚っている。これらすべての人々は、計り知れない福徳を積んだことになるだろう。不可思議で、比べるものがなく、限りなく、無量の福徳を積んだことになるだろう。スブーディよ、これらすべての人々は、みずから目ざめに与るようになるだろう。・・・」(一五・b節)[12]
121ページの後半で釈尊はスブーディに次のように問い自ら語る。「スブーディよ、どう思うか。〈わたしは生きているものどもを救った〉というような考えが、如来におこるだろうか。スブーディよ、しかし、このように見なしてはならないのだ。それはなぜかというと、スブーディよ、如来が救ったというような生きものはなにもないからである。また、スブーディよ、如来が救ったというような生きものがなにかあるとすれば、如来に、自我に対する執着が、生きているものに対する執着が、個体に対する執着が、個人に対する執着があることになるだろう。スブーディよ、『自我に対する執着とは執着がないということだ』と如来は説かれた。しかし、かの愚かな一般の人たちは、それに執着するのだ。」(二五節)
127ページ、釈尊はスブーディに語る。「・・・けれども、また、スブーディよ、求道者・すぐれた人は、積んだ功徳を自分のものにしてはならないのだ。」ここでスブーディは念押しをしたくなったのであろう、こう訊ねた。「師よ、求道者は積んだ功徳をじぶんのものにすべきではないのでしょうか。」(二八節前半)
これに対して、釈尊はこう述べる。そしてこれは冒頭の中村による紹介中に引用されてもよい言葉である。「スブーディよ、自分のものにすべきであるけれど、固執すべきではない。そういう意味をこめて、《自分のものにすべきではない》と言われているのだ[13]。」(二八節後半)
ここで冒頭引用中の『求道者はものにとらわれて施しをしてはならない。』(四節)も一緒に考えれば、具体的な行為は不明だが、生きるものを救うという功徳を積む行為でさえ、自分が救ったという考えがあれば、それは執着があることであり功徳を積むには欠ける、生きものを救ったかどうか、如来にはそのような考えは生じないと説いているのだろう。そして、一般の人も、修業者も、そのように善を行なえということであろう。
さて、功徳を施す側に執着があってもそうでなくても功徳を施される受け身の側にとっては利益があることは確かではないか。この見方だけであれば功徳を積む側がどのような心持かは受ける側に影響はないだろう。だから、広く観察すると、功徳は積むということに意義がないとは言い切れなくなりそうである。一方、施していると考える側にも意義がありそうだが執着がある限り意義はないと説く。受ける側に利益あることをしても、それを功徳を積みつつあるその者の功徳とするには、自我への執着および功徳を自分は施しているという執着を持つべきではない、他との差別がなくすべてが平等であることを知り、行為に固執し振り回され自慢しあるいは嫉妬し、そして優越感[14]に浸る偽善をしてはならないことを説いているのだろう。つまり、127ページの二八節前半で、積んだ功徳を自分のものにしてはならないとまず言うのは、積んだ功徳を文字通りに自分のものにしてはならぬと説いているのではない。自我に執着しないことを軸にするこれらの条件を守れるならば自分のものになるということだろう。だから、この上のない正しい知・覚りを得るとしても、あるいはその近くに至るとしても、これらを守れずそのような罠にはまるなら覚ることはない。守れるなら最高の知・覚りに向けて、積んだ功徳を自分のものにすることができるということか。これが的外れではないならすこしは理解ができつつあるのかもしれない。
では、なぜ功徳を施すことを欲するようになるのだろうか。覚りに近づくことを欲するからか。最初はそのようなきっかけであり、かつそれは執着なのだが、だんだん固執しなくなることが重要と言うのか。
また、目指しているものを手に入れるとどのような利益があるかを知っているために、最高の知・覚りを目指すのか、あるいはそれを目指したいと思うのか。目指すことを釈尊は与件として取り扱い、明らかには説かないように読める。おそらくは、目指す過程と到達点、この両方で個人は救われるし他者も救われることは言わずともわかるだろう、ということか。しかし、愚昧の私は、はっきり言ってくれないとわからない。はっきり書いてあるのかどうかも含め読み進めたい。そうでなければ、少なくとも金剛般若経の中にありそうなことと私が想像することは宗教ではなく、世界と自分をどのように認識するかの指針を示す整理学かという当初の悩みがそのまま続くことになる。
6.自我
執着を持つべきものではないことがらのひとつとして、自我が取り上げられていることを読んだが、ここでは自我に焦点を絞った釈尊の言葉を読む。自我への執着をなくすという難題が取り扱われる。
117ページの最後から119ページにかけて[15]、
釈尊とスブーディは問答を続ける。「スブーディよ、どう思うか。如来が、この上ない正しい覚りを覚ったというようなことがなにかあるだろうか。」と釈尊に問われスブーディはこのように答えた。「師よ、そういうことはありません。如来が、この上ない正しい覚りを覚られたというようなことはなにもありません。」そして釈尊は言う。「そのとおりだ。スブーディよ、そのとおりだ。微塵のほどもことがらもそこには存在しないし、認められはしないのだ。それだからこそ、《この上ない正しい覚り》と言われるのだ」(二二節)
釈尊は続ける。「さらに、また、スブーディよ、実に、その法は平等であって、そこにおいてはいかなる差別もない。それだからこそ。《この上ない正しい覚り》と言われるのだ。この、この上ない正しい覚りは、自我がないということにより、生きているものがないということにより、個体がないということにより、個人がないということによって、平等であり、あらゆる善の法によって現に覚られるのだ。それはなぜかというと、スブーディよ、『〈善の法〉〈善の法〉というのは法ではない』と如来は説いているからだ。それだからこそ、《善の法》と言われるのだ。」(二三節)
実は、金剛般若経のかなり初めの節で釈尊は次のように述べる。「・・・スブーディよ、かつて或る悪王がわたしの体や手足から肉を切りとったその時にさえも、わたしには、自己という思いも、生きものという思いも、個人という思いもなかったし、さらにまた、思うということも、思わないということもなかったからである。・・・それだから、スブーディよ、求道者・すぐれた人々は、一切の思いをすてて、このうえなく正しい目ざめに心をおこさなければならない。かたちにとらわれた心をおこしてはならない。声や、香りや、触れられるものや、心の対象にとらわれた心をおこしてはならない。法にとらわれた心をおこしてはならない。法でないものにとらわれた心をおこしてはならない。どんなものにもとらわれた心をおこしてはならない。・・・それだから如来は、〈求道者はとらわれることなく施しをしなければならぬ。かたちや、声や、香りや、触れられるものや、心の対象にとらわれないで、施しをしなければならぬ〉と説かれたのだ。」(一四・e節)
106ページ、釈尊は次のように説く。「・・・スブーディよ、『〈生きているもの〉〈生きているもの〉と言うのは、実は生きているものではない』と如来は言っている。それだからこそ、生きているものと言われるのだ。それだから、如来は、『すべてのものには自我というものはない、すべてのものには、生きているものというものはない。個体というものはない、個人というものはない』と言われるのだ。」(一七・f節後半)
107ページの最後で釈尊は次のようにも言う。「スブーディよ、もしも、求道者が、〈ものには自我がない。ものには自我がない〉と信じて理解するとすれば、如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人は、その人を求道者・すぐれたものであると説くのだ。」(一七・h節)
121ページの二五節後半にある釈尊の言葉を再掲する。「・・・スブーディよ、如来が救ったというような生きものがなにかあるとすれば、如来に、自我に対する執着が、生きているものに対する執着が、個体に対する執着が、個人に対する執着があることになるだろう。スブーディよ、『自我に対する執着とは執着がないということだ』と如来は説かれた。しかし、かの愚かな一般の人たちは、それに執着するのだ。」(二五節)
自我への執着は「愚かな一般の人たちは、それに執着する」そのようなことがらだと釈尊は言う。
釈尊はさらに検討対象を広げる。宇宙をどう理解・判断するのかという難題である。これについても釈尊は「・・・それ[16]はおろかな一般の人々が執着するものなのだ。」(三〇・b節)と述べる。この二つのことがらにつき執着を捨てることが特に難しいということなのであろう。
7.宇宙、自我
「原子の集合体」[17]にまで粉砕される世界が宇宙の中に多くあることにつき三〇・a節で釈尊と語った後、スブーティは次のように述べる。
131ページ。スブーディは言う。「また『如来が説かれたはてしない宇宙は宇宙ではない』と如来は説かれています。それだからこそ、《はてしない宇宙》と言われるのです。それはなぜかというと、師よ、もしも宇宙というものがあるとすれば、《全一体という執着》があることになりましょう。しかも、『如来の説かれた全一体という執着は、実は執着ではない』と如来が説かれています。それだからこそ、《全一体という執着》と言われるのです。」(三〇・b節前半)これに対し、釈尊は次のように説く。
「スブーディよ、《全一体に対する執着》は、言葉で表現できないもの、口で言えないようなものだ。それはものでもないし、《ものでないもの》でもない[18]。それはおろかな一般の人々が執着するものなのだ。」(三〇・b節後半)
これに続けて釈尊は自我につきもう一度説く。「それはなぜかというと、スブーディよ、誰かが、『如来は自我についての見解を説いた。生きているものについての見解、個体についての見解、個人についての見解を如来は説いた』と説いたとしよう。スブーディよ、その人は正しく説いたということになるだろうか。」(三一・a節前半)
スブーディは答える。「師よ、そうではありません、幸ある人よ、そうではありません。その人は正しく説いたことになりません。それはなぜかというと、師よ、『如来の説かれた、かの自我についての見解は、見解ではない』と如来が説かれているからです。それだからこそ、《自我についての見解》と言われるのです。」(三一・a節後半)続いて釈尊は説いた。
「スブーディよ、実に、そのとおりだ[19]。求道者の道に進んだ者は、すべてのことがらを知らなければならないし、見なければならないし、理解しなければならない。しかも、ことがらという思いさえも止まらないように、知らなければならないし、理解しなければならないのだ。それはなぜかというと、スブーディよ、『ことがらという思い、ことがらという思いというのは、実は思いではない』と如来が説かれたからだ。それだからこそ、《ことがらという思い》と言われるのだ。(三一・b節)
既に121ページで釈尊が次のように説くことを繰り返し読んだ。「・・・『自我に対する執着とは執着がないということだ』と如来は説かれた。しかし、かの愚かな一般の人たちは、それに執着するのだ。」(二五節)
このように、自我と宇宙につき、おろかな一般の人々が執着するものと釈尊が位置付けていることは興味深い。特に注意を払うべき対象である、つまりはそれに執着するのは仕方ない面もある、と言っているのかもしれない。
宇宙のことは別にして、自我については、ことがらにつき判断をする者自身もその判断[20]も執着する対象にすべきではないと言えそうな気もするが、おそらくこれでは未熟すぎるのだろう。この心配はさておき、自我についての見解を容易に説明したスブーディには多くの問題が既に難題ではないと釈尊は考えたのかもしれないが、この問答が行われている場所に集まっている多くの人々に向けて、これらの難題について語る釈尊の言葉は一種のやさしさを感じさせる。つまり、求道者はすべてのことがらを知ろうと努力しなければならない(三一・b節)が、自我と宇宙はあまりに難しく、一般人が執着する、あるいは執着せざるを得なくなる、あるいは執着することを好む、そういう執着の対象になることがらと位置付けたように読める(二五節、三〇節)。すべてのことがらを理解することを目指すべきである、しかし、このふたつそしてそれへの執着の取扱いは特に難しい、無理せず理解を進めよ、しかし、それを理解しようとすることに振り回されるな、わからないということに執着するな、と説いているように読める。わからなくても執着しなければ、覚りに近づく、あるいは覚るのか。いや、そこまで容易ではなく、やはりわからなくては覚ることはないということか。
8.法を理解し身につけること、それを広めること
金剛般若経は最終段階、三二・a節に向かう。この智慧の完成という法門[21]から四行詩ひとつでも、とり上げて記憶し、誦え、理解し、を用いて他に説いて聞かせる者は、多くの功徳を積むことになる[22]と説き、その詩は次のようなものだと釈尊は詠った。
現象界というものは、/星や、眼の翳、燈し火や、/まぼろしや、露や、水泡(うたかた)や、/
夢や、電光や、雲のよう、/そのようなものと、見るがよい。
(鳩摩羅什の漢訳では) 一切有為法 /如夢幻泡影 /如露亦如電 /應作如是観
9.啓示、啓示のないこと
認識の指針として示されるものは、世界ははかないものという整理・理解のようである。この整理・理解から生まれる、自他の区別のなさ、自分が覚りを得たいという気持ち[23]であれ教えを理解しようとする思い、偽善なく他者に教え広めるという行動。これらを執着なく生きることで、覚る、あるいは覚りに近づくのか。
私の悩みに戻る。覚りはなぜ目指すものになるのか、覚ると、具体的にはなにがどうなるのか。覚らなければわからないとするなら、なぜそれを目指す気持ちが多くの人に生まれるのか。生来すぐれた者はこのように安心に至りそうだと容易に知り、覚りたいとすぐ思うのか。救われる可能性を求めたくなるからだとすれば、救いを求めて宗教に向かう気持ちとしてはわかる。しかし、生きようという気持ち、どん底から這い上がろうという推進力になるようなもの/考え・人生の指針を、覚りたいという気持ち、あるいは覚りそのものが生みだすのだろうか、という私の悩みはなお残る。覚るためには功徳を積んで他者を助けよ、という具体性は説かれている。しかし、覚るとあるいは覚りに向かう途上で、死への恐怖が克服されるのか、幸福感が訪れるのか、痛みがなくなるのか、怖れがなくなるのか、元気が出るのか。死を前にしてあるいは苦難の結果のどん底にいる時、避けようとか這い出そうとか、問題を解決しようということではなく、このような整理によってものごとへの執着がなくなり、今のこの状態はこれでよい、改善しようがしまいが改悪しようがしまいが、これでよいと安心するのか。怖れがなくなり、気にならなくなる、そして苦難に耐えることができ、さらに死も静かに受け入れられる。そうなら、ここで安心が得られ個人は救われるのか。
宗教はまず個人を救うことで存在意義を持つし、他者も功徳を施す者から功徳を受けて救い(覚り)に向かうのだから、金剛般若経が説くものと私がぼんやり理解する上段の内容でも、その「効果」は宗教として充分かもしれない。仏教[24]が世界宗教であると認められているのは、本人、他人、共同体、そして世界にも善の作用・効果を及ぼし続けているからだろう。そうなら、単なる整理学であるかという心配はなくなりそうである。しかし、覚りとはなにか、覚るとなにが具体的によいのか。「愚昧の私は、はっきり言ってくれないとわからない。」とした。今のところ、まだわからない。
少し視点を変える。このようなことが最高の知・覚りであるのか。それに近づいてもいない身ではあるが、次のように感じる。金剛般若経に説かれる最高の知・覚りがほんとうにこのようなもの、あるいは雰囲気を感じているだけと限定しても、このようなものなら、この最高の知・覚りは社会の物的な近代化・進化に役立ちそうもない[25]。経済活動あるいは富を増大すること自体を功徳とする考えをどこかで織り込まないと世界の物的な近代化には役立ちそうにない。ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」に見られるように、つまり一部の地域でプロテスタント思想・倫理と資本主義・資本主義の精神が結びついたようなこと、そしてそれより前あるいはそれに並行したカトリック布教熱意が冒険的略奪型帝国主義と手を携えたようなことがないならば[26]、私の思う「このようなこと」は物的な近代化・進化の推進力にはなりえないように思える。このように思うのは近代化や富裕化、進歩、快適さなどに執着するためである。数多い経典のたったひとつを数度読んだだけの仮置きの立場ではあるが資本主義世界に生きる者には、近代化ないしは経済の進化への効用の有無は気になる。
一方、全般的には経典に依らないが金剛般若経を重視するらしい禅では、覚りに向かうにただ座禅に打ち込む、只管打坐しかないとも聞く。無念に座る時に功徳を積んでいるのか。そうでなければ、覚ろうとする個人だけが救われ得るということか。そう簡単単純であるはずもないが、新たに興味が湧いた。
金剛般若経に何が書かれているか知識は増えたものの、覚りに向かいたいという強い思いは生まれず、宗教的啓示を受けるかもしれないというかすかな望みは望みのままであることは確かである。
令和4(2022)年10月18日
[1] 『般若心経・金剛般若経』 中村元・紀野一義訳註、岩波文庫 1960年7月25日第1刷、2001年1月15日第59刷改版発行、2020年7月27日第81刷発行。漢訳版ではなくサンスクリット版を現代語訳したもの。本稿中の参照ページは本書中のもの。
[2] 「金剛般若経」は北伝仏教(大乗仏教)般若経典のひとつ。略さず、「金剛般若波羅蜜経」あるいは「能断金剛般若波羅蜜多経」とも知られる。「般若心経」は同様で、「般若波羅蜜多心経」とも知られる。
[3] 節番号に続け節と記さないことがある。念のため、ここと以下の引用では番号の後ろに一語「節」を補う。
[4] 撥無。はつむ。仏教用語。払いのけて顧みないこと。
[5] 中村による理由説明の引用は、実はこれから読む現代語訳そのものではない。そのため、経典中の節の特定がここではされず、中村の文章に自然に溶け込む形になっている。これは金剛般若経の中で似た言葉使いにて幾度も登場する考え方・テーマであるからであろう。私も本書中異なる複数箇所で読むことになる。
[6] この逆説的話法も「空」を説くための手法と述べる論者もいると聞くが、割愛する。
[7] 中村は先行研究も参照しつつ、西暦150-200年頃成立とする。釈尊は紀元前5世紀頃の人。
[8] 釈尊の教えは南伝仏教と北伝仏教に分かれたが、分かれる前の信者集団の中で金剛般若経は成立し、北伝仏教(大乗仏教)に引継がれた、そして南伝仏教では共有されないと中村は紹介する。私は北伝仏教の伝統の中で読み進めることになる。
[9] 仏弟子の一人。須菩提と漢字に音写される。
[10] アーノクタラサンミャクサンボダイ(サンスクリット。阿耨多羅三藐三菩提と漢字に音写されている)の訳。
[11] このあたりの暫定的な整理は、般若心経では明白に使用されている「空」という語についての本書中の般若心経を巡る解題中の解説や他書を思い起こしながらのものである。
[12] これとよく似た釈尊の言葉は一四・h節(89ページ)にもある。
[13] 言っている者に敬意を込めた言い方なのかはっきりしないが、如来が述べているとしてみたい。
[14] すべては平等であるということを理解せず身につけないために生じる優越感であろう。
[15] 両ページ間の118ページは見開きの右側であり、鳩摩羅什役の漢訳が示されている。
[16] 宇宙と全一体のことにつき説くのだが、私にはまったく理解できていないので、宇宙のことを説いていると簡略化する。
[17] 鳩摩羅什による漢訳では「微塵衆」。
[18] 脚注16を参照。
[19] 私にはスブーディの回答は不明であるが、スブーディによる説明を釈尊はよしとしている。しかし、自我についての見解を巡ってさらに続けるのではなく、引用するように、一見異なることがらを説く。
[20] 般若心経で用いられる「空」の語を使っていないとはいえ金剛般若経にある「空」の考えを用いて行う判断であっても執着するなと言っているのだろう。
[21] 般若波羅蜜多という経典と読める。
[22] 既に見た91ページの一五・b節に加え、それ以前の節で、学び広げることは福徳だと強調されている。
[23] これは執着であろうが、功徳を積む中で消えていく執着と理解すればよいのかもしれない。
[24] 南伝仏教(上座部仏教あるいは小乗仏教)につき、私が全くの無知であるため、ここで南伝仏教を外し、大乗仏教が云々、と書くことにはためらいが残るので、仏教が云々とした。
[25] 物的な近代化・進化の奔流の中に生きている私から見る視点である。
[26] もちろん、そうではなかった。また、略奪型の帝国主義であり資本主義的な合理主義に圧倒されなかったスペインとポルトガルの各帝国は消えた。